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けんいちブログ

宇宙開発について

2002.10.15

「宇宙開発について」

日本版NASAの誕生。その意義と役割とは。
NASAという名前を聞いたことのない人はいないだろう。アメリカ航空宇宙局のことである。アポロ計画やスペースシャトルはあまりにも有名である。NASAはアメリカの非軍事部門の宇宙開発を一手に引き受けている。これに対し日本では宇宙開発を推進する機関が二本建てになっていた。宇宙開発事業団(NASDA)と宇宙科学研究所(ISAS)の二つである。H‐ⅡやH‐ⅡAなど大型のロケットを開発してきたのは宇宙開発事業団であり、1970年に日本初の人工衛星の打ち上げに成功したのは宇宙科学研究所だった。役割分担としては宇宙開発事業団が実用衛星の打ち上げを推進したのに対し、宇宙科学研究所は学術・研究に力点を置いてきた。ロケットの種類でいえば前者の主力が液体燃料ロケットであり、後者は固体燃料ロケットである。

所管官庁は前者が旧科学技術庁ならば,後者は旧文部省だった。 この両機関が今度統合される運びになった。より正しく言えばこれまで航空部門を中心に研究をしてきた航空宇宙技術研究所(NAL)も含めて三機関が統合され、新法人が設立される。行政改革の流れの中、関連する機関は統合し効率的な研究や開発を進めることになったからである。今後の日本の宇宙開発は新設される法人が一元的に管轄することになる。いわば日本版NASAの誕生ともいえる。新機関は宇宙航空研究開発機構(仮称)と呼ばれ、来年10月に正式に発足する予定である。 まもなく開会する臨時国会でその設置のための法案が可決される見込みである。これをきっかけとして日本の宇宙開発がますます進んでいくことを期待したい。

ところで宇宙開発というのは莫大な費用がかかる。それに見合うだけの意味があるのかという批判は常にある。端的にいえば「月に行ったからといってそれが何の役に立つのだ」という批判である。月着陸のアポロ計画もそうした批判を受け、縮小を余儀なくされた。当初の計画では10回の月面着陸を予定していたが、実際に月着陸船が打ち上げられたのは7回に終わった(うち一回は事故のため月面着陸しなかったので月に降りたのは6回)。そしてその後30年間、人類は月に行っていない。

もちろん宇宙開発に実用性がないわけではない。気象衛星・資源探査衛星・通信衛星などはすでに生活に役立っている。来年春には日本初の情報収集衛星の打ち上げも予定されているが、これは日本の安全保障や災害対策などに役立つはずである。さらにスペースシャトルなどで宇宙空間に出ることで無重力状態を利用して地球上でできないようなさまざまな実験を行うことも可能になる。また宇宙ロケットという最先端技術に投資することは関連産業の育成にもつながる。

それでも予算がかかりすぎるという批判がつきまとうのも事実である。費用対効果で見れば、宇宙よりももっと他の分野に投資した方が有効だという意見にも一理はある。そうした声を受け、宇宙開発事業団の予算額は3年連続減少し1476億円にとどまっている。だが宇宙開発とは単に目先の利益だけを追い求めて行なうべきものではない。真理の探求であり、人類の可能性の挑戦なのである。科学技術が実利だけを追求するので本当によいのだろうか。夢も必要である。古来、宇宙は人々の夢をかきたててきた。それを考えれば宇宙関連予算を削減する最近の風潮はおかしなものである。

まして宇宙開発には他の意味もある。宇宙への進出によって地球というものを見つめ直すことができる。つまり人類の意識革命につながりうる。日本を離れて外国の地に行くことで日本を見つめ直し、日本人であることを意識するということはよくある。それと同じように宇宙に出ることで地球を強く意識し、地球人であることの自覚を持つようになるはずである。今後ますます地球規模の視野で考え、取り組まなければならない問題が増えてくる。

温暖化をはじめとする環境問題に特にそれが顕著である。「かけがえのない地球」「宇宙船地球号」という認識を広めていくためにも宇宙開発は積極的に推進すべきだといえる。

恐るべき隣人・北朝鮮

2002.10.08

「恐るべき隣人・北朝鮮」

ついに拉致の犯行を認めた北朝鮮。この無法国家といかにつきあうべきなのか。

まったく恐ろしい隣人を持ったものである。北朝鮮のことだ。9月17日に小泉首相が訪朝した時、金正日総書記は日本人を拉致したことをついに認めた。しかもそのうち8人はすでに死亡したという。これでこの国の本質が「犯罪国家」「テロ国家」「人さらい国家」であることが白日の下にさらされることになった。

実のところ北朝鮮が異常な国だということは以前から周知の事実だった。鉄のカーテンに覆われた謎多い国とはいえ、亡命者の証言やこれまでの国際社会での振る舞いからして、どういう国かということはだいたい分かってはいた。拉致被害にあったのも日本人だけでなく韓国人やレバノン人にまで広がっていることも判明していた。 それでも実際に北朝鮮が犯行を認めたことの衝撃は計り知れないほど大きい。今までの日朝交渉で日本側が拉致問題に触れるだけで席を蹴って退出していたのは一体何だったのか。実際に拉致していたにもかかわらず、よくそういう態度をとってこれたものだと思う。 まったく日本を愚弄した姿勢だと言わざるをえない。まして死亡者の多さやその年齢の若さは北朝鮮という国への疑念を強く抱かせる。ガス中毒死、交通事故死、溺死、自殺、心臓病死、あげくの果ては墓地は洪水で流出などという北朝鮮側の説明に納得しろという方が無理である。

広く世界に目を向ければ国家機関による拉致が他にまったくないわけではない。日本が舞台になったものとしては韓国中央情報部による1973年の金大中事件が有名である。イスラエルはナチスによるユダヤ人虐殺の責任者アイヒマンを亡命先のアルゼンチンから拉致した。19世紀末には清朝がロンドンで反政府活動を行なっていた孫文を拉致しようとして未遂に終わったこともある。こうした事件を正当化することはできない。だが北朝鮮による今回の犯行はこれらの前例とも違う異常な事件である。 従来の拉致というのは反政府活動家や当該政府にとって好ましからざる人物を誘拐したというものである。事の是非は別としてまだ理解可能な犯罪といえる。それに対し北朝鮮による拉致の被害者たちは反北朝鮮の活動をしていたわけでも何でもない。たまたま海岸にいた普通の人たちを海の向こうに連れ去ったのである。そんな国が現在のこの地球上に存在してよいのだろうか。

だが現実にそういう国が存在するのである。しかも日本と海一つ隔てて向かい合っている。だからといって引っ越すというわけにもいかない。我々としてはこの無法国家とどうやって付き合っていくかを否応なく考えざるをえない。北朝鮮との関係の基本は「対話」と「抑止」を二本柱とすべきである。あたりまえのようだがこれが重要である。俗な言葉でいえばアメとムチを両方用意するということである。あえて対話を拒むことはない。対話によって北朝鮮を国際社会の一員に迎え入れられるのであればそれが最善だからである。しかし「話せば分かる」というような生やさしい相手でもない。日米韓の連携を密にして毅然とした態度を示すことも必要である。

ここで難しいのが「対話」と「抑止」のバランスである。その点、これまでの対北政策は対話に軸足を置きすぎていたのではないか。つまりアメを与えることに傾斜していた感がある。日朝の国交正常化交渉は1991年に始まった。この交渉が中断するたびにコメ支援などを実施して、対話再開の機運を醸成してきた。結局6回のコメ支援が行なわれている。しかしこうした支援は北の姿勢を軟化させることにつながらなかった。 それどころか待っていたのはテポドンの発射であり、拉致問題での梨のつぶての回答だった。いわば北朝鮮は日本から支援を食い逃げしたのである。

北への宥和的な姿勢が変化したのは小泉内閣が誕生してからである。小泉首相は一貫して「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」と言い続けた。安易な妥協はしないという姿勢を鮮明にしたわけである。今回まがりなりにも北朝鮮が従来の姿勢を転換しつつあるとすれば、こうした毅然とした外交姿勢があってのことだといえる。

ここでもう一度、従来の外交姿勢を反省してみる必要がある。もちろんこれは外務省の姿勢を問い直さなければならないということである。だが問題を外務省の責任だけに矮小化してはいけない。政治家やマスコミも含んだ国全体の問題と考える必要があるだろう。むしろ対北朝鮮外交を歪めてきたのは政党であり政治家だったといえる。北に擦り寄るような姿勢をとり続けたのは政治家の訪朝団だったのである。その最たるものが1990年の金丸信・元副総理率いるところの自民党・社会党の訪朝団だった。当時、北朝鮮は日本人船員2名を7年間にわたって不当に抑留していた。金丸氏らの訪問を機に2名は解放されることになるが、その時に小沢一郎・自民党幹事長、土井たか子・社会党委員長は「深い感謝の意」を表わす礼状を北朝鮮側に手渡している。不当な抑留に感謝するというのはどういうことだろうか。

ましてこの時は、戦後45年間についても日本が謝罪し償うことを約束をしている。戦前ならばいざ知らず戦後、日本が北朝鮮に被害を与えたということはない。むしろ被害者は日本側である。賠償するとすれば北朝鮮のはずである。こうしたおかしな交渉を議員外交の名のもとに政治家が行なってきたことは大きな失態といえる。

いま求められているのは抑止にしっかりと足場を持った交渉である。今から北朝鮮に言わなければならないことは山ほどある。拉致被害者の安否についてのさらなる情報提供、他に拉致されたと見られる人たちの安否、核開発の中止、ミサイル配備の撤去、通常兵力の削減、工作船の目的などどれをとっても重要なことである。それだけにこれらのことを主張する場が必要となってくる。話し合うのはよい。

だが言うべきことを言うという大原則を忘れてはならない。日本側の主張が通らないうちにあわてて国交正常化を進める理由はない。
実はこれは多くの国民の声でもある。小泉訪朝直後に朝日新聞が行なった世論調査では「北朝鮮と国交を結ぶ方がよい」とする人が59%、「そうは思わない」が29%となっている。だが選択肢に「(国交を)正常化すべきだが急ぐ必要はない」が加えられた読売新聞の調査では次のような結果になっている。

・できるだけ早く国交を正常化すべきだ 20.5%
・正常化すべきだが急ぐ必要はない 68.4%
・正常化する必要はない  5.5%
・答えない 5.7%

交渉して日本の主張をしっかりとすべきだが、安易な妥協はしてほしくないというのが世論の大勢だといえる。

北朝鮮という国との交渉では甘い幻想は禁物である。2年前に初の南北首脳会談が行なわれた時、これで朝鮮半島は敵対から和解への新時代に入ったという分析があった。だが実際はそこでの約束のほとんどは守られていない。北朝鮮が変化したという確証はまだない。ソ連が脅威でなくなったのは共産党一党独裁という体制そのものが変化したからである。 これに対し北朝鮮の独裁体制に変化は見られない。相も変わらず金正日の独裁体制が続いている。

もちろんペレストロイカもグラスノスチ(情報公開)も無縁なのである。国民は自国が犯罪国家であることなど知らされていない。それどころか北朝鮮は内外使い分けた勝手な宣伝を今なお続けている。こういう国との交渉は最大限慎重でなければならない。対話は行なうべきである。だが対話を請い願うことがあってはならない。まして支援などが先走ってはならないのである。

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