「西岡武夫参議院議長の逝去を悼む(その1)」
2011.11.10
西岡武夫参議院議長の逝去を悼む(その1)
西岡武夫参議院議長が逝去された。これまでに参議院の正副議長が現職のまま亡くなられた例は以下の2回ある。
松平恒雄 議長 昭和24年11月14日逝去
小野明 副議長 平成2年4月19日逝去
この2例ともに参議院葬が行なわれており、今回もそうすることで各党が合意している。日時は未定だが今月下旬になるかもしれない。
西岡議長は衆議院に当選11回、参議院に当選2回の大ベテランだった。衆議院議員に初当選したのが昭和38年である。私が昭和41年生まれなので、生まれる前から国会議員をつとめていることになる。昭和38年総選挙というのは池田勇人内閣での総選挙である。同期当選組には渡辺喜美代表の父親・渡辺美智雄元副総理らがいる。いかに長い政治経歴かが分かるというものである。
いま開会している臨時国会は10月20日に開会したが、議長は冒頭から体調不良で欠席されていた。口内炎と帯状疱疹という話だった。その点、心配してはいたが、命に関わる病状とは思っていなかったので訃報を聞いた時は本当に驚いた。
亡くなる一週間あまり前にお電話をいただいた。用件の話が終わった後「水野さんはいつでもこの携帯電話に掛けてきても結構ですから」とおっしゃられたので「恐れ入ります」と答えたが、まさか自分が生まれる前から国会議員をつとめている大先輩で、三権の長たる人にホイホイ電話するわけにもいかないので、それが最後になってしまった。
さて西岡議長は菅直人政権に対しては厳しい発言を繰り返していた。東日本大震災後には公然と退陣を求めるようになった。このことは、大きく報じられていたので、あえて繰り返しはしない。
私にとって特に印象深いのは、大震災後に我が党が提出した「統一地方選延期法案」をめぐる対応のことである。今年は4月に統一地方選が予定されていた。ところがその前月に大震災が起こった。
みんなの党は、この非常事態の中では「選挙よりも復興が第一」であり、全国すべての地域で統一地方選は延期すべきだと主張した。そして延期法案を参議院に議員立法の形で提出した。選挙にかける余力や労力があれば被災者の救援や被災地の復興に充てるべきだと考えたからである。
ところが民主党も自民党も延期するのは岩手県、宮城県、福島県といった地域だけでかまわないという姿勢だった。そこで彼らは私たちが提出した法案を「吊す」という戦術に出た。
「吊す」というのは国会用語である。法案を委員会に付託するのを止めることを意味する。法案はまず関連する委員会で審議され、そこで可決されると本会議に上程される。吊すというのは文字通り宙ぶらりんにして、委員会での審議入りをさせないわけである。
実はみんなの党はそれまでにも数多くの議員立法を提出していた。議員歳費の3割カット法案、日銀法改正案、政策金融改革法案などである。ところがこれらはすべて「吊されて」審議入りしなかった。
宙ぶらりんにするというのは他党にとっては利点がある。採決で賛否を明らかにしなくてすむからである。例えば歳費カットの法案などは、本音ではどの党も反対である。しかし民主党も自民党も口先では「身を削る改革」みたいなことを言う以上、表立って反対はしにくい。そうすると「審議入りさせない=採決もしない」という方が都合がよいわけである。
この統一地方選延期法案の時も普通にいけば、吊されるところだった。ところがその時に西岡議長が「これは良い法案だ」とおっしゃられた。そしてそれを吊したまま審議もしないというのは怪しからんという立場を取られた。
ルール上は委員会への付託は議長の仕事になる。ただ実際には主要政党が了承したもの(もしくは議運委員会で付託が可決されたもの)だけを付託するという慣行があった。議長の役割は形式的なものと考えられてきた。それを西岡議長は議長の権限を行使して付託すると主張されたわけである。
慌てたのが民主党と自民党である。主要政党が反対している中、議長権限で法案を委員会に付託するとなれば前代未聞である。そこで民主党も自民党は「そういう前例を作りたくない」と考えた。それには両党共に付託に賛成したという形をとるしかない。それならば議長が反対を押し切ったのではなく、主要政党が賛成したから議長が追認したという形式になる。
そこで両党は(内心はともかく)自発的に付託に賛成した。国会用語で言えば「吊しを下ろした」わけである。これは明らかに西岡議長の慣例にとらわれない強い意向があって初めてなされたことだった。
こうしてこの法案は「政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員会」で審議入りすることになった。実際に成立したのは被災地のみの選挙延期という政府提出法案で、残念ながらみんなの党法案は可決されなかったが、これは我が党単独提出法案で実質審議入りした第一号の法案となった。
他にも西岡議長との話の中で学ぶことは多かった。エネルギー政策の話になれば40年ほど前に文部政務次官だった時に勉強したという核融合の話などについても深い知見を持っておられた。また新自由クラブでの経験談などは新興政党にいる私にとっても貴重な勉強になった。
ブログの“その2”では西岡議長が晩年に力を尽くされた選挙制度改革について述べたい。
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