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けんいちブログ
比例代表
2010.05.18
街に出ると参議院比例代表候補予定者のポスターが目立つようになってきました。
比例区の候補者は大変だなあと思います。なにしろ選挙区は全国。交通費や宿泊費だけでも馬鹿にならないでしょう。
(現職議員はJRフリーパスなどを使って動くからそれほど負担にならないのかな?)
昔の全国区が「銭酷区」とか「残酷区」と言われたのも分かります。
しかも比例区から立候補した人数は3年前の参議院選挙の場合だと159名。こんなに多くの人の中から自分の名前を書いてもらうというのは並大抵のことではありません。
しかも個人名でなく政党名で投票しても良いのですからなおさらです。
「みんなの党」も現時点で比例候補として11人が内定しています。頑張ってもらいたいものです。
まあ人のことを心配するよりも自分自身のことで全力を尽くさなければいけないのですが・・。
身分から職業へ
2010.05.17
「みんなの党」は官僚叩きの政党と言われることがあります。公務員制度改革に一番熱心で、天下りに鋭く切り込んでいるためにそう見えるのでしょう。
しかし誤解のないように言っておきますが、私たちは官僚個人を誹謗中傷しているわけではありません。何も官僚を無くすと言っているわけでもありません。政府を運営する上で官僚は必要です。
ただ今の官僚機構は時代遅れになっていると主張しているだけです。制度改革が必要だと強く唱えているのです。
ではどのように変えるのか。堺屋太一氏が面白い表現を使っています。「今の官僚は“職業”ではなく“身分”になってしまっている」とのことです。
その人の能力や意欲によって昇格するのが普通の職業ですが、現在の官僚機構の中では何年入省か、・種合格か・種合格かということで自動的に役職が決まってきます。これでは職業ではなく身分制度だというわけです。
こういう制度にメスを入れて、官僚を普通の職業にして、機構を活性化させるべきです。これに一番熱心なのが「みんなの党」です。官僚叩きのポピュリズムとは似て非なるものであるのは言うまでもありません。
演説
2010.05.16
演説をする時に、まったくのぶっつけ本番でやる人と事前に細部まで推敲を重ねる人がいます。
私は当意即妙にすべてをこなせるほど器用ではないので、後者の方に入ります。まあ、細部まで全部決めはしないにしても、ある程度の粗筋は考えた上で話します。
そうするとどこへ行っても演説は大体同じ内容ということになります。私に限らず多くの人はそうなるでしょう。
ですから選挙の時に首相や党首の遊説にくっついて全国を回る番記者は同じ演説内容を何度も聞かされることになります。
番記者からすると次に何を言うかが読めるだけでなく、「ここではこのジョークで笑いを取ろうとする」なども全部予見できるようになるわけです。
ただ記者やSPといった首相や党首といつも一緒の人にとってはマンネリの演説でも、聴衆は毎回変わるわけですからそれでもよいのでしょう。
私の演説も一応は原稿があるので、ここに掲載しても良いのですが、やはり生で聞いてくれるに越したことはないので、ちょっと掲載は控えておきます。
一定規模の街頭演説会を行なう時はこのブログで時間・場所については発表したいと思っています。よろしくお願いします。
自民党は変わったのか?
2010.05.15
自民党は変わったのでしょうか。参議院選挙を前にしてフレッシュな人材を起用して「変わった」という印象を作り出したいのは分かります。
若手登用の象徴とされるのが河野太郎氏の幹事長代理への就任です。歯に衣着せぬ発言で“党内過激派”とも見られている河野さんは確かに今までの執行部にはいなかったタイプです。
しかし「抜擢人事」というほどのことなのでしょうか。年功序列的な発想で見れば河野太郎さんは衆議院当選5回。別に幹事長代理になってもさほどおかしな期数ではありません。
幹事長代理というのは要職ではありますが、あくまでも幹事長の下。
しかも以前は幹事長1人・幹事長代理1人でしたが、最近はやたら増員され幹事長は1人ですが幹事長代理は河野さんを含めて5人もいます。いわばワン・オブ・ゼムです。
昨年の総裁選で一定の票を獲得した河野さんならば幹事長や党三役に起用されても不思議はなく、「代理」では抜擢というには当たらないでしょう。
少なくとも小泉内閣時に当選3回の安倍晋三氏を幹事長に大抜擢したのに比べると思い切った人事という感はしません。
まあ他党の人事を私が心配しても始まりませんが、自民党が変わるのはそう簡単なことではなさそうです。
もちろん河野さん自身はすごい政治家だと思っていますし、私も自民党時代に一緒にいろいろと活動もしました。
こういう逸材にふさわしい活躍の場は自民党の幹事長代理などではなく、政界再編後の新しい政治の中にあるように思います。
10年前の今日
2010.05.14
10年ひと昔と言います。10年前の平成12年5月14日に小渕恵三氏が亡くなりました。
首相在職中の4月2日に脳梗塞で緊急入院した小渕氏は、首相の座を森喜朗氏に譲った後、1か月半の闘病の結果、帰らぬ人となりました。享年62歳でした。
この年は6月に梶山静六、竹下登両氏も相次いで亡くなり、一時代の区切りを印象付けました(ちなみにいずれも旧田中派系の人たちです)。
当時、私は自民党の衆議院議員の1期生でした。6月には解散・総選挙があったので、2期目に臨む選挙直前だったわけです。
国会では若手議員(年齢ではなく当選回数です)ほど前列に座る慣習があります。初当選同時の私の議席は「一丁目一番地」と呼ばれる最前列の左端でした。
最前列の端というのは、ひな壇の内閣総理大臣席のすぐ近くです(ひな壇は高い位置にあるので座席の高さは違いますが・・)。その時首相席に座っていたのが小渕首相でした。
小渕政権の支持率は発足時は低いものでした。「冷めたピザ」「真空総理」などと揶揄されていましたが、支持率はじわじわと上昇していきます。
当初高くて急落する鳩山由紀夫政権と真逆です。
小渕首相と鳩山首相はもう一つ逆のことがあります。沖縄への思いです。
平成12年は日本がサミット開催国でしたが、小渕首相は数ある開催予定地の中から沖縄を選びました。そのサミット直前に急逝したのは無念だったでしょう。
鳩山首相が口で「沖縄の思い」と繰り返しながら、言葉だけを弄ぶのと対照的です。
鳩山首相の言葉が軽い点、総理の資質が問われる点は、むしろ小渕首相の次の森喜朗首相に似ているような気さえしてきます(森さん、ゴメンナサイ・・)。
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